人は古来より、安全で便利な生活を求めてきた。
システムがそれを可能にしている。
社会は、システムで構成されている。システムを構築し、合理的に運用、コントロールしている。
そして、安全で便利な生活を維持している。
鉄道や道路交通網、信号機などの交通ルールなどが分かり易い。
「荘子」は「機械を持つ者は機械に頼る心(機心)が生まれ、あるがままの自然を見失う」と説いている。
機械はシステムを形にしたものだ。
システムに頼ってばかりいると、この世の摂理や美しさ、自然の大いなる力を見失うということだ。
「荘子」はおよそ2300年前に書かれた書物だ、そんな昔から人はシステム社会に疑念を抱いていたということになる。
安全で便利な生活は魅力だ、システムがそれを可能にするのなら頼ることのどこが問題だ、と思うが、そこには弊害もある。
自然を見失うとは、自然の一部である人も見失うということだ。
人の本来の姿、美しさや力を見失い、無力な存在であると思い込む、そしてシステムに飲み込まれる。
システムの一部と化した人間にとって、安全で便利な社会は牢獄でしかない。
システムや機械、テクノロジーを捨てて、原始の生活に戻れと言っているわけでは無い。
システムは合理的な思考の上に成り立っている。
物事を合理的に解釈するとは、システムで解釈するということだ。
AIが進化したら、人間を支配し排除するという説がある。その説の根本には、人間のシステム視があると思う。
機械であるAIは合理的に問題を解決する、人間もシステムの一部であり、問題点であると認識すれば、排除するであろう。
それを回避するには、人間はシステムに飲み込まれないことだ。
人は行動の理由を問われると、合理的な説明をしようとする、人は合理的システムで出来ていると言っているようなものだ。
システムに飲み込まれないとは、合理的な思考に支配されないということだ。
もっと感性や本能を大切にすべきではないだろうか。
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